桜ねねの頭髪になりたい

いや違うんですよ、決してオタクの「自分の嗜好に由来する性的欲求を煽るパーツ、あるいはそこに常に接触しているものになりたい」という部類のものではないんですよ。

もちろん、その文脈からの言葉でもあるのは確かで、あの綺麗で健康的な彼女のうなじには見惚れますし、その肩から見下ろす彼女の小さな体躯に見合わないほどのボディにはきっと大いに唆られるだろうと日々悶々としてはいますよ。

でもこの考えの本筋は全く違う思考の物語の先にあります。

やっぱり僕も日本人なので、この世の儚さ、あるいは厭わしさを憂う日々が続くこともあるんです。

そんなある日、たまたま気分で視聴するぞと決め込んでいたアニメを見ていると、僕の目の前にとある美少女が姿を現しました。言わずもがな桜ねねさんです。

彼女は明るく可愛く、それこそ天真爛漫で、言動や態度も言ってしまえば幼い部分もあります。しかし、ときには優秀さを発揮することもあったり、親友を思いやったりする優しさや自分の非を省みて落ち込んだりする人間らしさも見せてくれる、魅力的なキャラクターです。

初めは、そんな彼女にただただ魅了されるばかりでした。彼女が画面の中で慌ただしく表情を変えるのに合わせてニヤニヤとオタク笑いをしたり、彼女が出てくるシーンの中で気に入った箇所のスクショを保存したりなど、ジットリした鑑賞に耽る一般的な楽しみを満喫していました。

気がつくと、僕は彼女によって癒されていました。憂いの日々の中のオアシスです。

思い至った瞬間、「桜ねねになりたい」という衝動が僕を貫きました。これは間違いない、そんな確信を手に掴んだ感覚でした。

しかし、そこで僕は思い留まることができました。というのも、「僕のような陰鬱で矮小な存在が彼女になれるのか?」という後追いの疑心が沸々と湧き上がって来たのです。すぐに答えは出ました。決してなれないのです。仮にそのようになったとしても、それは彼女の姿をした僕であって、彼女のような輝きを放つ存在ではないのだろうという当然の結論でした。

そこでまた一つ前の感情に立ち戻ると、僕の本望は「桜ねねさんを見守り続けること」が正しかったのです。我々は「見ること」によって悩みを忘れ、精神の安寧を手に入れることで、初めて存在価値を取り戻す生き物です。

では彼女の周囲の人物として彼女を見守り続けるか。

違います。やはり彼女の周りにあるべき存在も僕では成りかわることができないものです。そもそも僕では、彼女の持つ交流の輪に参加していてはならないのです。

ここまで自省して、「せめて人間でなくてもいい、常に彼女と共にあるものを」と考えつくわけです。ですが、道具や衣類、装飾品などでは、場合によっては彼女に置いていかれることになります。とはいえ、利き手や脚など、体の一部となることを望むのも烏滸がましいのでした。

彼女の一部であって、彼女それ自身ではないものは何か。考え抜きました。

頭髪だ。

頭髪なら、あるいは最終的には抜け落ちたり、あるいは身だしなみの名の下に切られたりするものであり、究極まで彼女自身であるとはいえない、しかし彼女の一部として共にあり続けるものではないか。

この考え方ならば、もしかすると皮質や爪などでもいいかもしれません。少しこだわってしまったのは、前述のうなじ云々肩から見下ろす云々の邪念もあったからです。

このような経緯から、僕はこのタイトルのように思うようになりました。

人間として社会を生きることへの屈折した感情、そして少しの下心から、僕はこう言うんですよ。

桜ねねの頭髪になりたい